大滝さん、秘密はラジオだったんですね。

クリエーティブ・ビジネス塾30「大滝栄一2」(2014.7.26)塾長・大沢達男
1)1週間の出来事から気になる話題を取り上げました。2)新しい仕事へのヒントがあります。3)就活の武器になります。4)知らず知らずに創る力が生まれます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、ラジオクラブ
Jポップ・シーンの冒頭を飾る大滝栄一(1948~2013)には、数々のなぞがありました。それは彼が「多羅尾伴内」「笛吹銅次」など、ミステリアスなペンネームを使ったということではありません。大滝栄一のなぞは、ただひとつ音楽家としての早熟性にあります。なぜ?「はっぴいえんど」のメンバーになれたのか。なぜ?フォークじゃなくポップだったのか。なぜ?アメリカン・ポップに詳しかったのか。
そのなぜへの答に出会いました。「13歳ラジオクラブに所属」。この一行を、東京の瑞穂町で開かれた「第2回大滝栄一を語る会」(2014.7.12 瑞穂町図書館)で配られたパンフレット「大瀧栄一音楽祭」(江刺体育文化会館ささらホール 平成22年8月29日)のなかに、見つけました。
大滝はラジオを自作していました。そして三沢基地から送られてくるFEN(Far Fast Network=現在のEagle 810=米軍の放送)の音楽番組を聞いていました。14歳から18歳まで、つまり1962年から66年までに米ヒットチャートに入ってきたナンバーを全部知っていました。
ヒットチャートとは毎週土曜日の夜に放送されていた「(全米)Top 20 (from Billboard Magazine)」です。大滝はどんなラジオを作っていたのでしょうか。まだトランジスタの携帯ラジオの時代ではありません。多分「鉱石ラジオ」でしょう。イヤホーンで聞く、小さなラジオです。でも音は透明だった。
2、「なぜ?」への答え。
1)なぜ「はっぴいえんど」のメンバーになれたのか。
はっぴいえんど」は都会のお坊ちゃまバンドです。細野晴臣1947年東京港区生まれ立教大学卒、鈴木茂1951年東京世田谷区生まれ青山学院大学卒、松本隆1949年東京港区生まれ慶応大学卒。大滝栄一1948年岩手県江刺生まれ早大2文中退?ファッションセンスも言葉も違っていたはずです。にもかかわらず、メンバーは大滝を仲間にした。それは大滝がアメリカ留学から帰ってきたように米音楽事情に通じていたからです。全米ヒットチャートの財産がありました。なんだこいつ?アメリカに住んでいたのか?みんな驚きました。
2)なぜフォークじゃないのか?
1948年生まれといえば、泉谷しげる(東京)、井上陽水(福岡)。そのまえにはフォーククレイダーズ(はしだのりひこ1945年生まれ、北山修1946年生まれ、加藤和彦1947年生まれ)がいます。彼らのお手本には、ボブ・ディラン、ジョーンバエズがあり、日本には岡林信康小室等がいました。彼らの影響を受けるのが「同時代」というものでした。しかし大滝は同時代の影響を受けていません。大滝だけが前の時代、60年代前半のアメリカン・ポップ・ミュージックの影響を受けていました。
3)なぜアメリカン・ポップ・ミュージックの詳しかったか?
いまここにアメリカン・ポップ・ミュージックのバイブルがあります。『Billboard's TOP10 CHARTS 58~68』(ジョエル・ホイットバーン かまち潤監修 音楽之友社)。10年間の毎週のヒットチャートの順位と曲と歌手が完璧に記録されています。プレーヤー(ターンテーブル)を持っているものも少なく、ヒットソングのシングルを買い集める時代でもありませんでした。ラジオからの一発勝負で曲を覚えました。大滝の大脳には日本最大の米音楽のデータベースがありました。
「13歳ラジオクラブ所属」が、大滝のすべての「なぜ?」への答えでした。
3、ポップからロックへ
大滝の「残念」は、テレビを見ていなかったことです。もし『ドビーの青春』(米TVドラマ)を見ていれば、アイビーとポップのなかに、あご髭を生やすヒップスター(ヒッピー)とロック・ジャズの存在を知ったはずです。もし『ルート66』(米TVドラマ)を見ていれば、アメリカの変貌とロックの曙を知ったはずです。ラジオからテレビへ、ポップからロックへ、60年代は70年代の準備をしていました。
産業社会批判、知覚の扉の解放、新しいライフスタイルの提案。大滝はロックをやりませんでした。
大滝栄一は、日本で生まれ日本で育った、60年代のアメリカン・ポップ・ミュージシャンでした。
そしてこれは大滝の責任ではありませんが、日本はいまだにロックをシャウトすることを知りません。
世界に音楽を発信できていません(・・・・・・こんな話を大滝とできないのが悲しい)。