マネの絵を確かめに、ことしのクリスマスは、パリですね。

クリエーティブ・ビジネス塾35「エドゥアール・マネ」(2014.8.26)塾長・大沢達男
1)1週間の出来事から気になる話題を取り上げました。2)新しい仕事へのヒントがあります。3)就活の武器になります。4)知らず知らずに創る力が生まれます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、『フォリー=ベルジェールの酒場』
なぜこの絵が気に入ったのかわかりません。描かれたのは1881~82年、19世紀の後半、描いた人はエドゥアール・マネ(1832~83)です。100年以上も前のものとは思えません。お酒の並んだカウンターで僕の注文を待ってくれている彼女、後ろの鏡にはワイワイガヤガヤ、たくさんの人がお酒を楽しんでいます。彼女は胸がパックリ開いた紺のジャケットを着て、髪はショートボブ、可愛いです。魅力的、それが証拠に帽子をかぶった口ひげの紳士が下心ありげに彼女に話しかけています。今週末は男友達と連れ立って新しい出会いを求めてこのお店に行ってみたくなる気安さがあります。『フォリー=ベルジェールの酒場』、マネがその生涯で最後の描いた作品です。
いつからこの絵のファンになったのかは分かります。1980年代です。フランスの女優ソフィー・マルソーのCM撮影でパリを訪れていた頃です。クレベール通りにある「ホテル・ラファエロ」に泊まっていました。画家のラファエロの名をつけた映画人御用達のホテルです。ワイン、シャンパン、コニャックそして水、ミネラル・ウォーターのエヴィアンが日本でも人気になり始めていた頃のことです。アメリカの西海岸に代わって、パリが僕たちの新しいあこがれになっていました。
2、エドゥアール・マネ
『草上の昼食』(1863)を見たことがありますか。木陰でふたりの男性とふたりの女性がくつろいでいる絵です。ただし女性ふたりはハダカ。画面の右奥に小舟が係留されていますから4人は船に乗って人がいない所にやってきたと想像させます。何気ない絵ですが。これは1863年ナポレオン3世が主催した公募展に落選し、「落選展」に飾られ、皇帝を激怒させた作品です。
なぜ皇帝は怒ったか。裸を描いたからではありません。ヌードは過去にたくさんあります。女神ヴィーナスを描いた、神話の女性はいいのです。しかしマネはパリの一般女性を描きました。風紀上好ましくない。マネはこのことを確信犯として実行しました(『印象派の誕生』p.65 吉川節子 p.65)。
オランピア』(1863)も同じくスキャンダルな作品でした。これはルネサンスの巨匠ティツィアーノウルビーノのヴィーナス』をヒントに描かれました。しかしマネは大幅に改造しました。まずヴィーナスの足下で安らかに眠る子犬(貞節のシンボル)に替わり、目を見開き相手を威嚇する黒猫が登場させます。つぎに衣裳を整える侍女に替わり黒人のメイド。当時、売春宿のメイドは黒人でした。そして「オランピア」とは当時流行の娼婦の源氏名でした(前掲p.84~85)。またしても裸のヴィーナスは女神ではなく現実の女性、それも娼婦を描きました。
いま「オルセー美術館展」(国立新美術館 2014.7.9~10.20)が開かれています。目玉は『笛を吹く少年』(1866)です。注目してもらいたいのは『ウナギとヒメジ』(1864)と『シャクヤクと剪定ばさみ』(1864)の小品です。魚に鋭利な包丁、花に鋭いハサミ。画面には不協和音が響いています。マネは、鉄道で産業化するフランスそして享楽のパリを描いたのです。
3、マネとモネ
第1回印象派展は1874年に開かれています。モネ、ルノワールピサロが出展しています。印象派の呼び名はモネの作品『印象、日の出』から来ています。マネは作品を出展していないのに、印象派のリーダーとされています。マネ(Manet 1832~83)とモネ(Monet 1840~1926)は違います。マネの印象は近代人の心の闇を描き、モネの印象は光溢れる自然を描きました。
マネやモネが活躍するフランスは激動期にありました。メゾンブランドのエルメスは1837年に馬具工房として仕事を始めています。またルイ・ヴィトン1854年に旅行用鞄の専門店としてオープン、67年のパリ万国博で銅賞を獲得し、世界ブランドになります。鉄道が発達し1850〜70年代で現在のフランス鉄道網の半分が完成しています。今のパリの町は、エッフェル塔(1889)以外、ナポレオン3世がサロン展を開いていた印象派の第2帝政(1852~70)の頃と、変わりありません。
フォリー=ベルジェールの酒場の彼女は、酒を売る以外に、自分も売っていた。それを確かめに、今年のクリスマスはパリに行こうではありませんか。彼女に似たマドモアゼルに出会い、自らの心の闇を見つめようではありませんか。