ミスター牛丼。アイラブユー。

クリエーティブ・ビジネス塾44「吉野家」(2014.10.22)塾長・大沢達男
1)1週間の出来事から気になる話題を取り上げました。2)新しい仕事へのヒントがあります。3)就活の武器になります。4)知らず知らずに創る力が生まれます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、やんちゃ
「ミスター牛丼」が辞めます。牛丼の吉野家にバイトで入り、22年間にわたり経営のトップにあった安倍修仁(65)が引退しました。安倍は九州の工業高校出身、上京しミュージシャンを目指してバイトをしていましたが、音楽は挫折、吉野家に転身したという「やんちゃ」な経歴を持っていました。
吉野家を統括する吉野家ホールディングスは現在、江戸前寿司の「京樽」、ステーキの「どん」、うどんの「はなまる」などを経営していますが、安倍の後を引き継いだ経営陣は、安倍よりも一回り以上も若い「やんちゃ」な経営陣になりました。「吉野家の『非学歴体質』」です(日経9/29)。
まず「吉野家」社長は河村泰貴(45)で広島の県立高校卒、ステーキ「どん」社長長岡祐樹(50)大阪の市立中学校卒、うどんの「はなまる」社長は成瀬哲也(47)は中京大中退、いずれも大学を卒業していません。安倍は、実力で選んだらこうなった、3人とも頑固で上司の顔色をうかがわない、仕事に対する美意識がある(自らと同じ「やんちゃ」)と新経営陣を説明しています(前掲日経)。
2、吉野家のDNA
吉野家は松田栄吉によって1899年(M32)に当時日本橋にあった魚河岸に始められます(ちなみに米「マクドナルド」創業は1940年、「松屋」は1968年、「すき家」は1982年、ともに「吉野家」をお手本にしている)。吉野家という名前は松田が大阪の吉野町(現在の大阪市福島区吉野)出身だったから。「牛丼」という名前も松田のオリジナルらしい。というのはその頃流行していたのは「牛鍋」、庶民的だったのは「牛めし」と呼ばれる「ぶっかけ飯」だったからです。その後魚河岸は関東大震災によって築地に移転します。吉野家も1926年(T15)に築地店をオープンしています(『吉野家の経済学』p.62~64 安倍修仁 伊藤元重 日経ビジネス文庫)。
吉野家のキャッチコピー「うまい、やすい、はやい」はその頃からの伝統。しかし力点の置き方は今と違う。客は築地の食のプロだけ、忙しいけれど、金はいとわない。だから「うまい」「やすい」だけでよかった。釣り銭を受け取らず仕事場に戻っていた人もいた。食のプロたちは味にこだわる。だから自分だけの「マイ・オーダー」を持っていました。タレをたっぷりかけた「つゆだく」、肉を大盛りにした「あたまの大盛り」、さらには肉の脂身を抜いた「とろ抜き」です(ともに現在では聞かない)。
1970年代、マクドナルドやケンタッキーの上陸とともに、吉野家も急成長します。1977年に100店、1978年に200店。しかし1980年に会社更生法手続き申請になってしまいます(倒産)。なぜつぶれたのか。ここではややこしいから省く。注目は回復力です。3年でほぼ健康に。7年で負債を完全返済してしまいます。経営の危機に「やんちゃ」ががんばった、としか言いようがありません。
3、うまい、やすい、はやい
なぜ、「うまい、やすい、はやい」のか。まず、牛肉、米、醤油、玉ねぎ、生姜などの材料は、細かく指示されコントロールされています。驚くべきは白ワイン。吉野家は国内の最大消費者、肉の味付けに使われています。つぎの調理は、省いて盛りつけ。飯盛りは表面がなだらかな丘状になるように。肉は、鍋から握りこぶしひとつ分離れて右足を半歩後ろに引いて立ち、一回で盛りつける。お玉には穴があいている、リズムを守ればタレが一定の量になるように計算されている。飯盛り、肉盛りのスキル(技術)が、一人前になるには半年かかる(前掲p.136~139)。
「はやい」をコントロールしているのは店長です。てんやわんやのランチタイムには店員がお客さまの要望に応えられないことがある。そんなとき肉盛りをしている店長は店全体を見回し「Aカウンターの右のお客さんあがりのおかわり!」と声をかける(前掲p.142~143)。そうです。これが築地の吉野家。これがうまくする。「少々お待ちください」のような間抜けたことを言わない。
吉野家は現場主義。だからといって、勉強しないわけではない。前社長の安倍は1968年にはアメリカ研修に、国内でも商品、開発、ストアマネジメントのセミナーに参加し、さらに1979年にはアメリカに9ヶ月の語学研修に行っています。現場研修だけではなく理論研究もやっています。
だけど「やんちゃ」は残す。客も店員も男社会。これが築地生まれの吉野家のDNA。『「粋」で「元気」は残さなければならない風情』(前掲p.136)。これが吉野家の「うまい、やすい、はやい」です。