クリエーティブ・ビジネス塾45「ユニクロ」(2014.11.19)塾長・大沢達男
1)1週間の出来事から気になる話題を取り上げました。2)新しい仕事へのヒントがあります。3)就活の武器になります。4)知らず知らずに創る力が生まれます。5)ご意見とご質問を歓迎します。
1、2014年(世界企業)
1)吉祥寺・・・10月3日(金曜日)にユニクロ吉祥寺店がオープン。翌日土曜日の夕方6時頃に行ってみました。1F~7Fの日本最大級の超大型店舗、コンセプトは「吉祥寺を愛する、すべての人へ。」吉祥寺在住の漫画家、居酒屋店主、デザイナー、八百屋さんが、広告に登場しています。グローバル企業でありながら地域密着型のお店づくりをするユニクロは、腰が低い。好感が持てました。
2)ナイキ・・・吉祥寺店オープンから4日後に、ファーストリテイリング(FR=「ユニクロ」を運営する会社)は、世界企業としてのブランド力を高めるためジョン・C・ジェイ氏をプロデューサーに採用したと発表しました。ジェイ氏は米広告代理店のクリエーティブ・ディレクターとして、ナイキ、コカ・コーラ、マイクロソフトなどのブランド力アップに実績のある「伝説の男」です。FRは、売上高1兆6千億円で、ZARA、H&M、GAPを追いかけています。2020年までには売上高5兆円を達成し、カジュアルファッションで世界のトップになります。ブランド力のトップ・スリーは、アップル、グーグル、コカ・コーラです。ユニクロはトップ100にも入っていません(インターブランド調べ2013 日経10/8)。
3)ハバード大学・・・もうひとつFRは見逃せないニュースを発信しました。若者のための奨学金です。米ハーバード大学の経営大学院とデザイン大学院の留学生に1人当たり2000万円を支給する。3年間で6人。半分は社長の柳井正氏が個人で払う。留学後にFR入社の義務はない。
2、1998年(ユニクロ東京)
1)1984年・・・ユニクロの歴史は1949年の柳井等(父親)の「メンズショップ小郡商事」から始まります。柳井正は1972年に入社し、1984年にユニクロ1号店(ユニーククロージングウエアハウス)をオープン。1997年には300店舗を突破します。
2)1998年・・・さらなる快進撃は1994年、首都圏初の都心型店舗「ユニクロ原宿店オープン」そして「フリース」の大ヒットから始まります。
3)2012年・・・「服を変え、常識を変え、世界を変えていく」。これがユニクロのスローガン。日本人は、国境を捨て世界に出ます。○半年で店長になれ、英語の勉強をして、グローバル化に備えろ。会社の公用語は英語。○FR東京本部の就業時間は、午前7時から午後4時。人より早起きして仕事をして、夕方から自己学習の時間にあてろ。○「生きるとは一生をかけて自分を発見すること」、「一人前になるには、情熱を持ち自己を革新すること」( ユニクロの企業広告 2012.6.17日経)。
3、1972年(柳井正23歳)
1)小郡商事・・・20代。柳井は大学卒業後ジャスコに就職しますが翌年2月には退職。そして23歳で父親の小郡商事に入社。1年で7人の社員は1人を残して全員が逃げる。原因は小僧が生意気を言うから。ところが父親は25歳になったばかりの息子に会社の通帳と実印を預けてしまう。「あとは、おまえがやれ」(『個人的なユニクロ主義』p.82 柳井正×糸井重里 ほぼ日ブックス)。柳井は、「この職業で一生やらないといけない」という覚悟ができた、それがすべてだと回顧しています。
2)ジャズ喫茶・・・柳井は1949年生まれ、団塊の世代、学園紛争で授業を受けずに早稲田大学政経学部を卒業しました。麻雀、パチンコ、ジャズ喫茶、無為な学生時代を過ごしています。「自由になるために商売やっている」(前掲p.109)と語る柳井正は、スティーブ・ジョブズのような、ヒッピージェネレーションそのものです。だだし柳井は同世代とちょっと違う。英語も仕事も提案もできる。
3)商売・・・柳井正は自分は商売に向いていない。幼少時を回顧しています。内向的、人と話すのが好きじゃない、そして愛想を良くするのがにがて。ぼくは、親父の銀行印と実印と預金通帳に追いつめられた。「夜中に親父とおふくろが資金繰りの話とか商売の話をするのを聞いていましたよね。子どもながらに『商売って、厳しいなあ』とは思っていたんです(前掲p.90)」。柳井正の商売人への転身は父親に全てを任されたときから始まります。みんなに辞められたから、ひとりですべてをやり、すべてを学ぶ。柳井は初対面の人でも既製服のサイズが分かるという。そう実際にユニクロ新宿西口店オープンのときに間近に見た柳井正は洋服屋の親父そのままでした。服がかかったハンガーの位置をササッサーと直しながら店内を歩く・・・。