クリエーティブ・ビジネス塾34「昭和史3」(2016.8.8)塾長・大沢達男
1、戦争責任
『天皇の戦争責任』(井上清 岩波書店)は、『昭和史』(遠山茂樹 藤原彰 今井清一 岩波新書)と同じように、いまだに団塊の世代に影響を与えています。
<天皇裕仁は、(1931年の満州事変から1945年の第二次世界大戦終了までの)一連の侵略戦争を遂行し、指揮した。そのことによって裕仁は、アジアの数千万人を殺した。すなわち彼は、「戦争犯罪人」であり、「ファシスト」であり、「5000万人の」アジア人を殺した最大最高の元兇である>(p.5~6)
井上清(1913~2001)は遠山茂樹(1914~2011)とともに、東京帝国大学で羽仁五郎のもとで学んだマルクス主義の歴史学者です。
まず、この本は「天皇制ファッシズム」(井上p.94)を告発するためにマルクス主義の立場から書かれています。つぎに、戦前の全否定により、占領軍の言論統制、「WGIP(War Guilt Information Program=戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)」に協力しています。そして、天皇を全く考察しないことによって、「あらゆる日本人はあ『潜在的な敵』」であり、(中略)日本という国は、本来『邪悪』な国である」から、その日本との「思想と文化の殲滅戦」(『閉ざされた言語空間』江藤淳p.155、p.161文春文庫)に、力を貸しています。
2、開戦と終戦
<天皇の権力と権威が、日本国民をあの侵略戦争にかりたてた>(井上『天皇の戦争責任』P.15)。<新たな大戦争への道を歩みはじめるとういう転換期には(中略)、天皇が積極的なイニシアチブを発揮した>(P.39)。<天皇裕仁は、凶暴な天皇制ファッシズムの頂点に君臨し、国民圧政と侵略戦争を指揮しつづけた>(P.102)。<天皇裕仁は開戦の日、日本国民に「米英両国に対する宣戦の詔書」を発した。(中略)この詔書こそ、日本国民にこの戦争は日本の自存自衛のためにやむをえない戦争であると信じさせ、国民を戦争にかりたてた最大の原動力であった>(P.180)。<「聖断」という形式で降伏が確定したとはいえ、そのことは天皇が降伏のイニシアチブをとったということでは全然ない。天皇は、日本の支配層のなかでは、もっとも後まで主戦派であり(後略)>(p.253)。
以上は『天皇の戦争責任』(井上清)から、同じことが『昭和天皇』(古川隆久)では、正反対になります。
<天皇が自分を犠牲にしてでも国民が大切に思っていること(「仁愛」)を示すことであった>(古川『昭和天皇』p.11)。<私は内閣の上奏する所のものは仮令(たとえ)自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることに決心した>(p.116)。<昭和天皇の要望は到底実現不可能なものであり、奈良(武官長)はもはや昭和天皇の協調外交路線にはついていけなくなった>(p.165)。<昭和天皇の穏健路線に対する批判は続いた>(p.172)。<(開戦の詔書)「今や不幸にして米英両国と戦端を開くに至る、まことにやむを得ざるものあり、豈(あに)朕が志ならんや」の(中略)「朕が志ならんや」と一文のみに、かろうじて昭和天皇の本心が示されている>(p.280~2)。<東郷(外相)の(ポツダム宣言)受諾案に対して軍部が受諾反対を主張したため、鈴木首相が再び昭和天皇に「聖断」を促し、ポツダム宣言の事実上の無条件受諾が決定した>(p.305)
3、昭和天皇
「神国」という仮想空間の「現人神(あらひとがみ)」は、現実の天皇としてどんな人だったのでしょうか。
まず、天皇は東宮御学問所で、欧米留学経験者により、教育を受けています。国際社会のなかで立派に通用する天皇の育成がめざされていました(古川p.23)。つぎに、天皇は20歳のときに半年にわたりヨーロッパを旅行しています。「昭和天皇の政治思想とは、政党内閣を前提とした大衆的な立憲君主制を実現するため、道徳的な君主として国民を感化させていく」(p.71)ことでした。そして、昭和天皇は「天孫降臨神話」を否定していました。進化論を知っていました(p.43)。現人神ではありませんでした。
もうひとつ重大な問題は、天皇とは何かです。欧米の絶対君主と比べることはできません。万葉、源氏、日本文芸の伝統、日本文化の中心に、天皇はいます。「理性だけでは人間社会を維持しきれず、天皇は、国家において、そうした信仰や信念に相当する役割を果たしてきており」(古川『昭和天皇』p.395)という認識を、天皇のみならず、私たち国民が持っています。戦争はいやです。平和は大切です。でも戦前否定、天皇否定、日本民族否定から、平和への答を導きだすことはできません。