「神はいるか?いないのか?」

クリエーティブ・ビジネス塾25「カラマーゾフの兄弟②」(2017.6.19)塾長・大沢達男

「神はいるか?いないか?」

1、イワン・フョードルビッチ・カラマーゾフ
イワンはフョードルの次男、つまりアリョーシャ(アレクセイ・フョードルビッチ・カラマーゾフ)の兄です。頭の切れるシニカルな無神論者です。
イワン「ねばねばする春の若葉、青空が、おれは大好きなんだ。そうなんだよ!知恵や論理なんて関係ないんだ。はらわたと魂で愛するんだ」(p.204)
イワン「最終的な結論としては、おれは神の世界というのを受け入れていないことになるんだ。(中略)おれが受け入れないのは神じゃない、いいか、ここのところをまちがうな、おれが受け入れないのは、神のよって創られた世界、言ってみれば神の世界というやつで(後略)」(p.218~9)
そしてイワンは「大審問官」という物語詩を作り、キリストを批判します。
イワン「その彼が(イエス・キリスト)自分の王国がやってくるという約束をして、もう15世紀が経っている。彼の預言者が『わたしはすぐに来る』と書いてから15世紀だ」(p.253)
ある日遅ればせながら、奇跡を起こすために、この世にやってきたイエスは、大審問官に捕らえられ、訊問を受けることになります。
大審問官(イワン)「・・・つまり『おまえ(イエス・キリスト)はすべてを法王にゆだねた。すべてはいまや法王のもとにあるのだから、おまえはもう来てくれなくていい、少なくとも、しかるべときが来るまではわれわれの邪魔はするな』ということさ・・・」(p.262)
大審問官(イワン)「人間にとって、良心の自由にまさる魅力的なものはないが、しかしこれほど苦しいものもまたない。ところがおまえは、人間の良心に安らぎをもたらす確固とした基盤を与えるどころか、人間の手にはとうてい負えない異常なもの、怪しげなもの、あいまいなものばかりを選んで分けあたえた」(p.273)
イワンが作った物語詩「大審問官」は、イエス・キリストの全否定といえるような、キリスト教批判です。
2、ゾシマ長老
対してゾシマ長老の生涯の物語は深い信仰の物語です。
若きゾシマ長老「わたくしたち運命のすべては、神の御心しだいです。『一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒の麦のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ』(後略)」(p.356)
ゾシマ長老には神のような兄がいました。
ゾシマ長老の兄「愛するみなさん、ぼくたちはどうして喧嘩をしたり、自慢しあったり、自分が受けた侮辱をいつまでも根にもったりするんでしょう。それよりも、いっしょに庭に出て散歩したり、はしゃいだり、愛し合ったり、褒めあったり、キスしたり、自分たちの人生を祝福したりしましょうよ」(p.367)
しかし神のような兄は亡くなります。そして若き日のゾシマ長老は聖書に出会います。
若きゾシマ長老「この聖書こそ、なんという書物だろうか、この書物によって、なんという奇跡、なんという力が人間に与えられていることか!」(p.375)
恋人争いの決闘の愚かさに気がついた若き日のゾシマ長老「周りを見わたしてください。神の恵みです。晴れ上がった空、澄んだ空気、優しい草、小鳥たち、美しく汚れのない自然(後略)」(p.397)
そうして、軍人であった若き日のゾシマ長老は軍人をやめ、修道僧の道を歩むことになる。
3、ロシア
なぜドストエフスキーがすべての小説家にとっての目標になるのだろうか。まだ小説の途中ですが、暫定的にいままでの印象を書き留めておきます。
まず、驚くのは圧倒的なデッサン力です。ダヴィンチやピカソのように人間を正確に描くことができます。身体的な特徴だけでなく、その人間の内面までを一人一人ていねいに描いています。もちろん風景も、ミレーやセザンヌのように描き、読者をそのシーンに誘います。
つぎに、登場人物たちが交わす会話の面白さ、豊富さ、そして深さがあります。会話は一流のディベートで勝てるプレゼンテーションになっています。
そしてテーマが壮大。システィナの礼拝堂に描かれた「最後の審判」、ミケランジェロです。
さらに、ゾシマ長老「神を信じない実践家は、どんなに誠実な心をもち、どんなに天才的な知性をもっていようと、わたしたちのロシアではなにごともなしえない」(p.439)。ドストエフスキーには、ロシアがあります。