ニューヨーク、エルヴィスとの新しい出会い。

クリエーティブ・ビジネス塾31「ニューヨーク」(2019.7.30)塾長・大沢達男

 

ニューヨーク、エルヴィスとの新しい出会い。

 

1、エルヴィス(ホイットニー美術館)

ニューヨークに行くたびに、習慣のように訪れていたMOMA(ニューヨーク近代美術館)が、工事中でお休み、やむなくホイットニー美術館へ。そこで、アンディ・ウォーホールの「エルヴィス」に出会いました。

ピストルを構えたモノクロ、シルクスクリーンのダブル・エルヴィス。イメージは映画『燃える平原児』から・・・、全身にビッビッと、電流が走りました。

「エルヴィスは誰を撃った」のか。「誰を撃とうとした」のか。「ロックンロールは何を誰を撃った」のか。

エルヴィス論のオープニングは決まり・・・。ところが困った。日本に帰ってから見た映画『燃える平原児』は、人種偏見の映画でした。<映画に出したのは誰だ。しかもこんなひどい映画に出したのは誰だ>。

2、エルヴィス(NYPL)

次にエルヴィスとの出会いを求めて、NYPL(New York Public Library=ニューヨーク公共図書館)に行きました。<エルヴィスのマネージャー、トム・パーカーは何者だ>。

「エルヴィスの研究をしています。特に彼のマネージャーであった、トム・パーカーについて、調べたいのです」。「OK!」。NYPLの司書の女性は、素早くキーボードをたたいてくれました。

そして資料情報の数枚のコピーを渡してくれました。

「残念ですけれど、この資料はこの図書館にはありません」。

リンカーンセンターにパフォーミング・アーティスト専門の分館があります。そこに行って下さい。これがリンカーンセンターの分館の場所です」、「わかりました。親切にありがとう」。

目的達成。翌日、リンカーンセンターへ、あいにく休館で大失敗。トム・パーカー研究は挫折。プリントアウトされた資料の中から、2冊の本をピックアップし、アマゾンに注文しました。

3、エルヴィス(ブルーノート

ニューヨークのナイトライフ、最初に行ったのは、7thアベニュー・サウス近くの「ファット・キャット」です。

狭い入り口から、地下に入るとだだ広く、卓球台が置いてあるジャズクラブです。8年前訪れた時と同じです。若い人々が集まり談笑しています。笑い声が絶えません。うるさい。音楽どころではありません。でもそれがいいんです。

ソプラノとアルトの二本のサックスのグループが演奏していました。コルトレーンアルバート・アイラー、ウエィン・ショーター、オーネット・コールマン・・・あのころの音が流れていました。私は泣いていました。人生のラストソングを私のために演奏してくれているかのように思えてしまったからです。感謝です。

そしてクライマックスは、「ブルーノート」。ベースのロン・カーターに巡り会えました。

30ドル+ドリンク代でロン・カーターですから悪くありません。音楽のレベルが違います。正確な演奏とグルーブ、演奏に誠意があります。音楽です。観客もいいです。だから感動というわけではありませんが、プロを見た満足感があります。your my sunshineロンのソロが忘れられません。

ロン・カーターは1937年生まれ、今年82歳。エルヴィス・プレスリーは1935年生まれ、もし元気なら84歳。ブルーノートで歌っていても、おかしくありません。

兵役を拒否し、下らない映画への出演をせずに、モンターレー(68年)やウッドストック(69年)のロックフェスティバルへ参加していれば、エルヴィスとビートルズローリングストーンズ、さらにはエルヴィスとクイーンとの共演も可能だったはずです。そしてエルヴィスのブルーノートも実現、いまここで、見れたはずです。

<トム・パーカーのマネジメントは、間違えていた、犯罪だ>。

ブルーノートのエルヴィスは幻でしたが、最後のエルヴィスに、ブルックリンで出会いました。

マンハッタンから移転した「ニッティング・ファクトリー」を探し求めて、ベッド・フォード通りを歩いているときでした。巨大に描かれた壁画のエルヴィスの顔を見付けました。5×5m位あったでしょうか。カメラに収めました。エルヴィスは今も生きています。

ブルックリンのニッティングファクトリーは、「ホワイト・フォード・ブロンコ」だけ。上手な90年代のロック。でもニッティングファクトリーには、最先端のクラブミュージックを期待していただけに残念・・・。

エルヴィス(ホイットニー)、エルヴィス(NYPL)、エルヴィス(ブルーノート)、3人のエルヴィスにニューヨークで出会いました。Ted Presley (私)が書く『Elvis Presley論』 が、いよいよ動き始めました。