かつて、成瀬巳喜男を香港人に話題にされて困った。でも、もう大丈夫。

TED TIMES 2021-24「成瀬巳喜男」 6/14 編集長 大沢達男

           

かつて、成瀬巳喜男香港人に話題にされて困った。でも、もう大丈夫。

 

1、『めし』成瀬巳喜男監督 1951年 東宝

第1に、倦怠期の夫婦(夫岡本初之輔:上原謙。妻三千代:原節子)を描くことが、映画のテーマになるでしょうか。

第2に、その倦怠期の夫婦のところに、親戚の若い娘(里子:島崎雪子)が家出して、飛び込んでくる。それも東京から大阪へ。家出の目的はない。単なるわがまま。そんなシーンに付き合っていられるでしょうか。

第3に、倦怠期の妻も、結婚生活に疲れたと、大阪から東京に、母(村田まつ:杉村春子)のもとに家出してしまう。家出に特別な理由はありません。これも我がままです。

溝口健二監督は成瀬巳喜男の映画に対して、「キンタマがない」といったそうです。

まさしくその通りです。

夫は仕事(証券会社)に命をかけているのか。それが見えません。

妻は自分の人生に、あるいは夫に対してどんな期待をかけているのか、それがわかりません。

また家出娘は、親のどこに、社会のどこに反抗して、反逆を企てたのか、理由なき反抗なのか。それもわかりません。

つまり映画にテーマがありません。

2、『浮雲』(成瀬巳喜男監督 1955年 東宝

第1に、妻子持ちの男(富岡兼吾:森雅之)が、戦時中の外地の勤務地で、独身女性(幸田ゆき子:高峰秀子)と恋に落ち、内地で会おうと約束します。権力の中枢の話ではない、ごく普通の人々の不倫です。こんなことが映画のテーマになるでしょうか。

第2に、妻子持ちの男は、やたらモテます。外地での女性だけでなく、内地に帰ってからも、いろんな女に手を出します。ところが男は、カッコいい、スタイルがいい、歌がうまい、頭がいい、というわけでもありません。男は背広姿でカバンを持って歩く冴えない男です。見ていられません。

第3に、これを言ったらおしまいですが、男と不倫の関係になる女の魅力がさっぱりわかりません。薬師丸ひろ子に似たチンコロ姉ちゃん、あちらの方がバツグンだそうですが、そればかりはわかりません。ビデオと繰り返し見たくなるような女ではありません。

男の仕事(営林署)にかける意気込みが全くわかりません。仕事での戦いが描かれません。つまり何をしている人なのかわかりません。

女の人生もさっぱり、わかりません。性と快楽のために生きる・・・でもそんなカッコいいことは描かれていません。

やっぱり映画にテーマがありません。キンタマがありません。溝口監督の指摘は正しいです。

3、成瀬巳喜男監督(1905~1969)

溝口健二監督のキンタマ発言は、正確には「あのひとのシャシンはうまいことはうまいが、いつもキンタマがありませんね」、というものです。

成瀬巳喜男監督は、撮影技術、編集技術は優れています。

『めし』では、家で娘が観光バスで大阪巡りをするシーンがあります。いいです。うまいです。バスガイドさんがいいです。そしてエンディングもいいです。家出した妻と連れ戻しに来た夫が列車に乗って、一緒に大阪に帰ります。ここもうまいです。カメラのアングル、フレームそしてカメラワーク、そして編集もいい、映像になっています。つまりシャシンがうまい。

浮雲』でも、温泉宿のいっぱい飲み屋の若奥さん、岡田茉莉子を忘れることをできません。危険な映像です。

溝口だけではありません。黒澤明監督は、成瀬巳喜男監督をもっとも尊敬していたと伝えられています。若いころ、成瀬監督の助監督についた黒澤は成瀬から映画作りの基本を学びました。きっと成瀬監督は現場の仕切りがうまかったのでしょう。

成瀬巳喜男は1920年、松竹蒲田撮影所じだいに小道具係として入社、エリート小津安二郎たちとは違ってなかなか監督になれず、監督になってからも大部屋で過ごす苦労人でした。東京・四谷生まれ、縫箔(ぬいはく)職人の息子です。優れたアーティストは、優れたアーティザン。成瀬巳喜男は優れた映画職人でした。