『アバター』には、ジェームズ・キャメロンの意図に反して、アメリカの未来があるかもしれません。

THE TED TIMES 2022-44「アバター」 12/22 編集長 大沢達男

 

アバター』には、ジェームズ・キャメロンの意図に反して、アメリカの未来があるかもしれません。

 

1、ヴィジュアル・エンターテイメント

スクリーンから飛び出し、こちらの泳いでくる魚を何度か掴み取ろうと手を差し出し、空(くう)をつかみました。私は海の中にいて、ほんとに目の前に魚が泳いできたからです。

「イル」という動物にあこがれました。イルは私たちを乗せたままサーフィンしながら水上を早く走り、イルはイルカのように自由自在に水中に連れて行ってくれ、かと思うと私たちを乗せたまま空に大きくジャンプ、夢は叶いました。私は海で自由自在に遊んでくれるイルがいっぺんで好きになりました。

そして『アバター』(Avatar THE WAY OF WATER ジェームス・キャメロン監督)という映画どう作られているのかという好奇心でいっぱいになりました。

まず主人公のアバター(地球人とナヴィのDNAを持つ人造生命体。意識は地球人)であるジェイク・サリーです。アバターのジェイクは顔が変です。特殊メイクか、CGなのか、よくわかりません。それに身長、なんと272センチメートルです。どうやって引き伸ばしたのでしょうか。

そのノッポぶりは人間であるスパイダー(マイルズ・ソコロ)と並ぶと一目瞭然です。183センチメートルの身長のスバイダーがとっても小さく見えるからです。衛星パンドラの住む人たちはみな背高のっぽ、それに尻尾がついています。

映像制作の原理は、演技者には普通に演技をしてもらい、そこから得たモーションキャプチャーのデータをもとに、CGを動かす???それでいいのでしょうか。それにしても、気が遠くなるような作業をどうやってこなしていくのか、想像もつきません。しかも背景もすべてバーチャル、CGで作ったものなのですから。

20年ほど前ロサンゼルゼルスの「ILM(industrial light and magic)」で仕事の打ち合わせをしたことがあります。『アバター』のエンドタイトルにも、「ILM」の名はクレジットされています。時代はすっかり変わってしまい、老兵は消えゆくのみです。

2、インディアン

映画を観ていて変な想像が頭を駆け巡っていました。

「なんか西部劇みたいだな」。

西部劇の戦いは、アメリカ合衆国の騎兵隊VS.北米大陸の先住民インディアンでしたが、『アバター』の戦いは、スカイピープル(人類)のRDA(resources development administration=資源開発会社)VS.衛星パンドラの先住民ナヴィです。

なによりその想像を後押ししたのはナヴィのライフスタイル、住居、タトゥー、アクセサリーなどの大道具、小道具群です。そのアートディレクションから見ると、ナヴィはインディアンそのものです。

ただ決定的な違いは、西部劇の白人=正義ではなく、『アバター』では人類=悪として描かれていることです。

西部劇での白人は、未開で乱暴なインディアンを征服する文明の使者でしたが、『アバター』では人類は異星人を征服しようとする悪、自然環境を破壊する悪、ナヴィは自然と共生する善として描かれています。

3、新しいアメリカ人

アバター』はエンディングで、主人公ジェイク・サリーがその家族との絆を確かめる、という感動的なシーンを用意しています。ナヴィは、自然と共生するだけでなく、家族を大切します。

この当たり前の感動シーンが『アバター』をアメリカ映画として徹底的に新しいものとしています。

現在のアメリカ合衆国を支配しているのは、社会は個人から構成されているアトム的個人主義です。それは個人の人権、平等、自由を主張する、アングロサクソン的なリベラリズムと言い換えてもいいものです。17世紀イギリスのジョン・ロックによって主張され、18世紀のアメリカの独立宣言のもとになり、20世紀の日本国憲法の元になった主張です。

アバター』はその世界に反旗をひるがえす主張をしています。個人よりも家族、部族、国家です。

フランスの人口学者エマニュエル・トッドは、個人は個人でありえない、自由も平等もありえない、個人を規定する家族、宗教、国家がある、リベラリズムに徹底的な反論をし、自由な個人を基礎とする核家族的なアングロサクソン文明が終焉を迎えるという主張をします。

ダイバーであり海を愛するジェームス・キャメロン(1954~)、あなたは新しい。