プリゴジン暗殺に見られる「ニヒリズム・ロシア」の系譜。

THE TED TIMES 2023-32「ブリゴジン」 8/29 編集長 大沢達男

 

プリゴジン暗殺に見られる「ニヒリズム・ロシア」の系譜。

 

1、ニーナ・フルシチョフ

ロシアの民間軍事会社ワグネルの創設者エフゲニー・ブリゴジン(1961~2023)が搭乗していた民間小型ジェット機が8月23日に墜落しました。

乗客乗員10名は全員死亡、搭乗者名簿にはプリゴジンのほか総司令官のドミトリー・ワトキンの名もありました(日経 8/25 夕刊)。

墜落原因は、地対空ミサイルによる撃墜ではなく、機内に設置された爆弾などによる爆発による暗殺と見られています(日経 8/26)。なおブリゴジンの死亡は、DNA鑑定で確定しています(日経 8/28)。

ロシアのプーチン大統領プリゴジンについて「才能のあるビジネスマンだった」とし、「彼は複雑な運命を背負った人物で、人生のおいて重大な過ちを犯した」、そして「すべての犠牲者の家族に哀悼の意を表したい」と述べました(日経 8/25 夕刊)。

今回のプリゴジンに死につながるワグネルの反乱は6月23日に起こりました。

驚くべきことは、その1日前の6月22日の日経に、ソ連の元最高指導者・フルシチョフの曾孫娘であるニーナ・フルシチョフが、プリゴジンの死を予言していたことです。

プリゴジンロシア革命前の最後の皇族・ロマノフ家と親交を結び強い影響力を持った怪僧・ラスプーチンに似ている。ラスプーチンは悲惨な最期を遂げた。プリゴジンも同じような道を歩んでいるのかもしれない」(ニーナ・フルシチョフ 米ニュースクール大教授 日経 6/22)。

ニーナが何を根拠にプリゴジンの悲劇的な結末を予言したのか、そしてニーナが現在のロシア政府とどのようなつながりがあるのか、それはわかりません。

ただただ、プリゴジンの死の2ヶ月前にそれを予言していたことに、驚くばかりです。

 

2、イワン・カラマーゾフとエフゲニー・プリゴジン

プリゴジンに似たロシア人がいます。ドフトエフスキーの小説に出てくるイワンです。

ドフトエフスキー(1821~1881)は小説『カラマーゾフの兄弟』(1880年)で、無神論者のイワン・フョードルビッチ・カラマゾーフを誕生させています。

イワンはフョードルの次男、つまりアリョーシャ(アレクセイ・フョードルビッチ・カラマーゾフ)の兄で、頭の切れるシニカルな無神論者です。

1)イワン「最終的な結論としては、おれは神の世界というのを受け入れていないことになるんだ。

(中略)おれが受け入れないのは神じゃない、いいか、ここのところをまちがうな、

おれが受け入れないのは、神のよって創られた世界、言ってみれば神の世界というやつで(後略)」(『カラマゾーフの兄弟』(亀山郁夫訳 光文社文庫) ② p.218~9)

2)そしてイワンは「大審問官」という物語詩を作り、キリストを批判します。

イワン「その彼が(イエス・キリスト)自分の王国がやってくるという約束をして、もう15世紀が経っている。彼の預言者が『わたしはすぐに来る』と書いてから15世紀だ」(② p.253)

ある日遅ればせながら、奇跡を起こすために、この世にやってきたイエスは、大審問官に捕らえられ、訊問を受けることになります。

大審問官(イワン)「・・・つまり『おまえ(イエス・キリスト)はすべてを法王にゆだねた。すべてはいまや法王のもとにあるのだから、おまえはもう来てくれなくていい、少なくとも、しかるべときが来るまではわれわれの邪魔はするな』ということさ・・・」(② p.262)

大審問官(イワン)「人間にとって、良心の自由にまさる魅力的なものはないが、しかしこれほど苦しいものもまたない。ところがおまえは、人間の良心に安らぎをもたらす確固とした基盤を与えるどころか、人間の手にはとうてい負えない異常なもの、怪しげなもの、あいまいなものばかりを選んで分けあたえた」(② p.273)

イワンが作った物語詩「大審問官」は、イエス・キリストの全否定といえるような、キリスト教批判です。

3)さらにイワンは無神論を展開します。

幻覚症のイワンのもとに、実在しないロシア紳士が現れ、無神論者のイワンと議論する「悪夢。イワンの悪夢」のシーンがあります。

<いったん、人間が一人残らず神を否定すれば(中略)おのずから今までの世界観や、肝心かなめの過去の道徳はすべて崩壊し(中略)人間は、神のような、巨人のような誇りの精神によって称えられ、人神(じんしん)が出現する。>(④ p.393~4)

<人はいずれ死ぬ身であって、復活はないことを知る。(中略)自分の兄弟を、もはやいっさいの報いなしで愛するようになる>(④ p.394)

長い引用になりましたが、プリゴジンはイワンに似ています。

20歳で、強盗、詐欺などで12年の懲役刑を受け、9年間を刑務所で過ごし、その後レストラン事業で成功し「プーチンのシェフ(料理人)」となり、さらに民間軍事会社ワグネルで国際的に活躍するその姿は、人神(じんしん)そのものと言えます。

ブリゴジンにも、イワンのように神を否定し道徳を破壊し、自らが神になる「人神(じんしん)」のニヒリズムがあります。

でもこのニヒリズムには、ついていけません。

人間存在に本質はない、石ころと同じそこにあるだけ、という実存主義の主張は、ファザー・コンプレックスの焼き直しに過ぎない、と結論できるからです。

ドフトエフスキー自身も、このニヒリズムを『カラマーゾフの兄弟』のエンディングで、否定しています。

幼くした死んだ少年(イリューシャ)の言葉があります。

<パパ、ぼくのお墓に土をかけるときは、パン屑もまいてね。スズメが飛んでくるようにね。だってスズメが飛んでくるのが聞こえたら、ぼくは一人じゃないってわかって嬉しくなるもの>(⑤ p.48)

そして死んだ少年の仲間たちは墓前で、<善良であること、正直であること、お互いを忘れないこと>、を誓い合います。

誰もが涙を流すシーンです。

「人神」になったブリゴジンの少年期に、何があったか分かりません。でも何かの不幸があったはず・・・いまは、ただ冥福を祈るばかりです。

ロシアのために戦ったプリゴジンのお墓に、パン屑をまいてあげましょう。

 

3、セルゲイ・ネチャーエフとウラジーミル・プーチン

プーチンに似たロシア人がいます。これは実在した人物で、セルゲイ・ネチャーエフ(1847~1882)です。

ネチャーエフは、ロシアの革命家で、ニヒリズム運動のオルガナイザーで、「革命家のカテキズム(革命家の教理問答)」を残しています。

学生時代にネチャーエフの名前を知り、「革命家のカテキズム」を読み、驚きました。

自分は革命家になれない、ニヒリストたりえない、と絶望と涙の決断を強いられた、つまり当たり前に生きろ、と説得されたことを覚えています。

ネットには、私の書棚にはとうの昔にない、「革命家のカテキズム」があります。ちょっと乱暴ですが、要約してみました。

1) 革命家とは、死を宣告された者のこと。個人的な感情、財産、名前はない。革命家にあるのは革命だけである。

2)革命家は、世界のすべての法律、礼儀、道徳の敵である。革命家は破壊のために物理、化学、医学を学ぶ。目的は世界の破壊である。

3)革命家にとっては、革命の勝利だけが道徳で、それを妨げるものは犯罪的である。

4)革命家は、憐みを持たない。死ぬ用意がなければならない。

5)革命家にとって革命の成功だけが、満足であり、家族、友情、愛情とは無縁である。

6)革命家は、破壊のために、偽装し忍び込む。

7)革命組織は、人民の不幸、災厄を増加させ、人民が忍耐しきれずに、総蜂起に立たせるように仕向ける。

8)革命は、国家組織を根こそぎにし、伝統、制度および諸階級をなくす。

9)革命家の仕事は、すべてをまきこみ、いたるところで行われる、恐ろしい破壊である。

以上、だいぶ簡略にしましたが、趣旨は失われていません。

ネチャーエフをかっこいいと思う、私の心はいまだに死んでいません。危険です。

ネチャーエフは、レーニンボルシェビキにその冷酷性で、影響を与えました。

革命という目的のためには、すべてが許される、というニヒリズムです。

プーチンの目的は、革命ではなく「強いロシア」ですが、その目的のために手段を選びません。

KGB、柔道に打ち込み、2013年に離婚し、酒もタバコもやらない、プーチンは、「強いロシア」のネチャーエフです。

 

4、ロシア

イワンに似たプリゴジン、ネチャーエフに似たプーチンニヒリズム・ロシアです

しかし、イワンも、ネチャーエフも、プリゴジンも、プーチンも、そしてドフトエフスキーすらも、みんなロシアを愛し、ロシアを思っています。

もし日本の作家が、小説の主人公に「おれは日本を愛しているんだ」などと言わせたら、たちまち三流扱いされますが、ロシアでは違います。

ロシア人はロシアを愛しています。そこがリベラリズムの日本の知識人と決定的に違うところで、恥ずかしく、悲しい。

歴史人口学者エマニュエル・トッドによれば、ロシアは「外婚性共同体家族」(家父長制家族)です。

カラマーゾフの兄弟のように息子たちは父親に結びつけられ、兄弟は対等、父親が死ぬと遺産は平等に分配されます。

日本は「直系家族」で、長男だけが後継ぎ、家族の財は長男のものになります。

日本には万世一系天皇家があります。ロシアと日本には共通して、共同体家族構造に潜在する価値観があります。

そして共同体の価値観こそが、英米の「純然たる核家族」と区分けするものです。

英米では、子供たちは10代後半から親から遠ざかり、結婚し自律的な家庭ユニットを築きます。

リベラリズム核家族イデオロギーです。

<おれはロシアを愛しているんだ、アレクセイ、おれ自身はたとえ卑怯者でも、ロシアの神を愛しているんだ>(⑤ p.31)

これは、『カラマーゾフの兄弟』のエピローグで、長兄ミーチャが三男アレクセイに、語った言葉です。

***

いま、私の頭に、チャイコフスキー(1840~1893)のピアノ協奏曲1番が、鳴り響き始めました。

ソ連邦の国家の代わりに使われたことがあるこの曲こそロシアを代表する曲です。

ところが、チャイコフスキーという名は、チャイカ(かもめ)の息子(フ))の一族(スキー)という意味で、チャイカ家はウクライナの伝統的な苗字だというのです(チャイコフスキー自身はウラル地方の生まれ)。

そしてニーナ・フルシチョフの曽祖父ニキータ・フルシチョフ(1894~1971)もウクライナと切っても切れない運命にありました。

生まれはウクライナ国境近くのカリノフカで、青春期はウクライナドネツクで過ごしました。

ロシアとウクライナは戦争をするような間柄ではありません。

 

End